河原 外久雄
インドネシアの面積は日本の約5倍190万平方キロ、人口2億3800万人(‘05)、北緯6度から南緯11度の赤道直下に位置し、さぞかし猛暑の国と想像しがちだが、年間平均気温は約28℃で比較的過ごしやすい国と云える。日本との関係は古く、“ジャガタラお春”の哀話や戦後賠償貿易の貢物となったスカルノ大統領第3夫人MADAM DEWI(神鷲商人 深田祐介著)の逸話なども生まれた。歌では雄大且つ滔々と流れるソロ河の歌“ブンガワン、ソロ”が日本語に翻訳されて歌われ、更に日本の“流浪の旅”(大正10年、宮島郁芳作詞、後藤紫雲作曲)と言う歌の中にもジャワと言った言葉が出てくる。
“流れ 流れて落ち行く先は
北はシベリヤ 南はジャワよ
いずこの土地を墓所と定め
いずこの土地と終わらん“
この歌の様に日本から見れば、地の果ての国のように思われた時代もあったが、第2次大戦後、インドネシアのオランダとの独立戦争 (1947−1949) 時、旧日本兵約2000人がインドネシア独立軍に参加し、戦後現地の娘さんと結婚してインドネシアに踏み止まった数多くの人々が居た事、又日本から多額のODAを供与している事等、諸々の事があって、近い隣人となったようである。インドネシアサイドからも彼等の日本人に対する感情も非常に良いと言える。
この国で1980年から3年間、1990年から17年間合計20年間を紡織会社の経営と技術指導のため在住した。だいたい日本から派遣される人々は現地会社から社宅、自家用車貸与、家政婦、運転手、ガードマン付きが一般的であり、生活費は日本の1/3程度、加えて日本人の給与は外地手当が加算されるので、優雅な生活が保障されていると云えるのではないだろうか。
また、果物の王様と言われる“ドリヤン”、オランダの女王が好んで食したと言われる“マンギス(マンゴスチン)”をはじめ、マンゴ、パパイヤ等々果物の種類が多く、近年日本食堂や日本食スーパーマーケットもあるので食事には困ることが無い。このようなインドネシアに魅せられて20年間の長期間定住する事となった。
もし皆さんが観光地バリ島へ旅する機会があったら、ぜひともルートとして
“日本出発→バリ島→ジョグジャカルタ→ジャカルタ→帰国”
の経路を推奨したい。
神々の島と云われるバリ島にはヒンズー教の伝統と文化に基づくロマンチックな踊り、金属音でややうるさく思われるかもしれないが独特なリズムをかもし出すガムラン音楽があり、お土産或いは記念品として黒檀や白壇の彫刻、繊細に描かれた独特な絵画、また日本には無い木彫りの壁掛け等々珍しい物にも困らない。更に美しい曲線を描いて広がる棚田や海岸線は言いようが無い程見事な景色である。
(但し海岸地帯では現地男性による日本人女性のハントが多いと聞く)
(木彫り等の値段は言い値の80%が当たり前、インドネシア語が堪能ならば言い値の30%から交渉し50%程度で買える事もある)
古都ジョグジャカルタはイスラム教が大多数を占め、バリ島とは全く趣が異なる。特に仏教遺跡であるボロブドウール、ヒンズー教寺院であるプランバナンは一見の価値があり、出来ればクラトン(王宮)も見てみたい。
(このインドネシアのボロブドウールとカンボジャのアンコール・トム、ミャンマーのパゴタの3箇所を訪問すると“極楽”へ行けるとも言う)
かつてオランダの東インド会社のあった首都ジャカルタは人口1100万人を擁し、日本の大都市の風景とは全く異なった南国らしいすばらしい大都会である。広々した大通りには駐停車している車は1台も無い。これは個々のビルデイングにパーキング場が完備されているからである。加えて世界中の食事が揃っており、カラオケは好みの可愛い女性を選んで侍らせる事も自由である。
(原則的には1対1で、周りの人々が気になるなら個室を利用すれば良い)
さて主題は海外勤務の経験談をと言う事ですので、数多くある話の中で代表的な“これがインドネシアだ”と言う話を3つ、お話しましょう。
第1話 全てに賄賂が平然とまかり通る国
インドネシアは後進国に有り勝ちな賄賂が当たり前な国であって、政府許可書の取得や税務署との交渉過程においても賄賂を必要とする。我々外国人にとっては何でもお金で済むから、逆に楽は楽なんだが。
そして警察官の数は日本よりはるかに多く目立ち、これがまたタチが悪い。ある時バンドンで休日、自分で車を運転していたら、信号無視で警官に呼び止められた。この場合、通常外国人は警官に賄賂として直接5万ルピア程度(600円)支払えば勘弁して貰えるのだが、警官は私の財布の中を覗き込んで、友達がいるから、もう5万ルピア寄越せと云う。更に5万ルピア支払うと、道路が混雑しているからと云って、わざわざサイレンを鳴らしながら自宅近くまで誘導してくれた事があった。
又現地人が市役所にパスポート取得のため住民票を貰いに行ったら“袖の下”を要求された。“貴方は国から給料を貰っているだろう”と云って拒否したが、相手は“確かに俺は国から給料を貰っている。しかし今はお前の仕事をしているのだから、俺にいくらかの礼金を払うのは当然だろう”と言われたと言う。これは正当な理屈なのだろうか。
交通事故で死亡した場合も国保から200万ルピアでるのだが、警察へは連絡しない事が多い。何故なら警察に支払う礼金の方が高いからで、ひき殺され損と言う事である。この話はこの事故に直接遭遇した日本人(運転手は現地人)から聞いた話で、この家族に何がしかの金を与えて終り、ホットしたと言う。
従って会社内で盗難があっても、余程の事が無い限り、警察には報告しない。盗難金より警察への礼金の方が高く付く事があるからである。
第2話 ジャワ人は礼節を重んずる民族と言われるが………。
インドネシアは300以上の多民族国家であるが、最も人口が多く性格的に礼節を重んじ、自尊心が強いと言われるジャワ民族が政府の上層幹部を占め、国のリーダーシップを取って来た。
又、我々の合弁会社PT.PRIMATEXCO INDONESIAのインドネシア側スポンサーであるバテック協同組合(G.K.B.I=GABUNGAN KOPRASI BATIK INDONESIA)もまた、この礼節を重んじ、自尊心の強い民族と言われているジャワ人が幹部の大部分占めている。然しながら彼らとの交渉は一筋縄では行かず、彼らの真意が何処にあるのか、やる気があるのか、はたまた全然やる気がないのか、探るのに苦労させられてきた。
例えば年に1度か2度、日本サイドのスポンサーであるダイワボウ、ニチメン(現在の双日)の
担当役員が来訪し、新事業計画の話や今後の経営方針等々の協議を行なう事になっているのだが、その会議の席上では日本サイドの希望意見を全て了解して貰えるので、役員は喜んで帰国し、社長に報告するものの、決められた事が何時まで経っても一向に進展しない。日本サイドから督促されても、自分達に不利益な事は何だかんだと屁理屈を言って先延ばし、日本サイドが諦めるまで屁理屈で誤魔化して来る。私自身もこんな事で恥をかかされたことが数回ある。議事録で双方の確認を取っても何の役にも立たない。組合長に問い質してみると、“日本から来訪した人はお客であり、お客に対しては来訪を拒まず、又言われた事に全てOKする事がジャワ人の礼儀であり、又お客も喜んで帰って貰える。但し頼まれた事をやるか、やらぬか、は別問題であって、お客に喜んで帰って貰える事の方が大切なのだ”と言う。私から“日本人は会議の席上では激論を戦わせるが、決議された事は万難を排して実施するのだ”と言ったら“会議の席上で激論するなどと言う恥ずかしい行為は出来ない”と言う。従って彼らとの会議は一生懸命インドネシア語を理解しながら、相手の腹を探らなければならず、大変疲れてしまう。
又、“ジャカルタの目”(中村敦夫著)の本にも書かれているが、道を訊ねる時は3人の人に確かめよと言う。インドネシア人は自尊心が高いので、“BELUM TAHU=まだ知らない”とは云っても“TIDAK TAHU=知らない”とはなかなか云わない。ある時Aさんの家が判らないので町の人に聞いたら、“右に100m程行った左側の家”だと言う。その場所に行っても判らず、もう一度他の人に聞いたら“それは違う、反対の左へ200m行った右側の家”だと言われ、来た道をスゴスゴと戻る羽目となる。従って道を尋ねる場合、3人の人に尋ねよと言われる。
(個人宅には表札が無い、家番号だけである)
現地の人に“インドネシア人は何故知ったかぶりをして、嘘を教えるのか”と問い質したら、“尋ねた人に嘘でも教えてやれば、その瞬間、尋ねた人の心が安んじるだろう。それで良いんだ”と言う。又嘘は言ってはいけないが、他人の心が安んじる嘘は宗教的に許されると言う。本当だろうか?
第3話 本来インドネシアの礼服は“バテック”
私の所属した合弁会社の当初の設立目的はバテック協同組合傘下の組合員にバテック用白地を供給するために設立された工場であったため、この業界に深く関係したので、この話について少々話しましょう。
バテックとは別名“ジャワ更紗”或いは“ろうけつ染め”と云われ、綿、絹又はレーヨンの晒し生地にインドネシアの伝統的な模様を“蝋”で生地を防染(蝋を置いた所を染まらないようにする)して染料の入った桶にドブ漬けする。更に蝋を置き直して色の違った桶で何度か繰り返す事によって、バテックが出来あがる。この織物の特徴は一般のプリンテイング物と違って柔らかい風合いのある染織物が出来上がる事である。最近はスクリーンプリント機でバテック本来の模様を染めた安物のプリンテイングバテックと言われるものが多いが、元来の工法はCAP(印形)とTULIS(書く)の2種類がありCAPは印形(約20cmX20cmのハンコのような物)に蝋を付けて、これを生地に押し当てていく工法で値段は比較的安い。またTULISはチャンテインと言う道具を使って蝋で模様を直接生地に書いてゆく工法であるが、模様が細かく高級品では幅約1m x 長さ約2.5m物で数百万ルピア(1円≒90ルピア)以上する物が多い。
1980年始めて赴任した頃は、田舎のおばさんは腰巻(スカート)に、男性は半袖のシャツに仕立てて大半の人が着用し、他方、男性はこの布地を長袖のシャツに誂えて公式な会合で着用、女性は高価なバテックを腰に巻きつけて(サロン=SARUNG)、パーテイーなどに出かける。この女性のスタイルはお尻の線が鮮やかに出て、何とも云えないセクシアルである。家内は日本の夏にはバテックが涼しいとの事で色褪せたワンピースの裏返しして自分で仕立て直し着用しているくらいである。
(プリント生地と違って、本来のバテックは裏表同一模様となる。又素人はよくプリント物をバテックだと言われて騙されるが、生地が蝋の焦げたような匂いがする事及び裏表同一模様であることが簡単な見分け方の一つである)
模様には大きく分けてジョグジャ風、ソロ風、チレボン風、プカロンガン風の4種類に分けられるが、これでシャツを作っても日本で着られるのはジョグジャ、ソロ風であって、カラフルなプカロンガン風、模様の大きいチレボン風は日本では少々無理ではないだろうか。
(仕立て代は400−600円)
然しながら現在このバテックも日本の着物と同じように衰退し始め、最近の結婚披露宴やパーテイーでは背広やドレスに取って代わられつつある。
我々はこの業界、即ちインドネシアバテック協同組合傘下の48支部組合に綿布を供給するため、1972年設立されたのが、合弁会社PT.RIMATEXCO INDONESIAであって、現地のバテック協同組合、ニチメン(双日)、IFC、ダイワボウの4社の出資による。工場は紡績、織布、さらし加工の一貫設備を持ち、敷地27万平方m、従業員1700名である。然しながら前述の様にバテックの衰退と共に、現在は綿布の大部分を日本をはじめ、イタリヤ等世界各国に輸出している。
20年間に亘る海外生活の経験を踏まえて、新しく赴任してくる後輩には、“各人のプライバシーについては一切干渉する気はない。自由に振舞いなさい。但しその行動責任は自分で取る事、ただ私の希望としては、第1に赴任したこの国を愛する事、第2にこの国の言葉を出来るだけ早く覚えて、現地語で指導する事、第3にゴルフでも囲碁でも何でもいいから何か趣味を持つ事”だと云ってきた。その理由は工場がジャカルタから車で8時間かかる中部ジャワに在るため、工場勤務者は孤独感に苛まされ、ホームシックに罹りやすいからである。
最後に高校1年の時、英語の篠田先生がこんな事を言われた。“英語は英語で理解しなさい”と。その当時はどうしても頭の中で日本語に翻訳しなければ英文を理解する事が出来なかったが、20年間もインドネシアに住んでいると、インドネシア語をそのまま理解出来るようになり、篠田先生が言われたことが今日ようやく判ってきた。
インドネシアはイスラム社会であるので日本では考えられない風俗や習慣が数多く、特に酒を飲みながらの話に面白いものが多いが、ここでは割愛しておく。
